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AIは何を「知っている」のか、今のAIは何を「していない」のか──栢森情報科学振興財団30周年記念講演が問いかけたもの
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- 公益財団法人栢森情報科学振興財団
2026年4月8日 06:00
公益財団法人栢森情報科学振興財団の設立30周年記念イベント「ロボット・AI新世紀 ─未来への懸け橋─」の基調講演が2月27日、名古屋マリオットアソシアホテルで行われた。名古屋大学名誉教授の間瀬健二氏が司会を務め、認知科学、ロボティクス、記号システム、発達科学という異なる領域から4人の研究者が登壇した。
ChatGPTの登場以降、AIは「何でもできる」という期待が膨らみ続けている。大規模言語モデルは流暢な文章を書き、複雑な質問に答え、プログラムのコードまで生成する。こうした能力を目の当たりにすると、AIが「考えている」のではないかという錯覚に陥りやすい。
しかし、この日の講演で語られたのは、まったく逆の視点だ。AIの内側で「理解」は起きているのか。人間の知性とは何が違うのか。4人は異なる領域のそれぞれの研究から、その問いに切り込んだ。
個人の身体と認知(今井むつみ氏)から始まり、個人と他者の関係性(岡田美智男氏)、社会における意味の創発(谷口忠大氏)、そして認知発達プロセスの全体像(浅田稔氏)へと、視点や切り口が変化していく構成となっていた。
公益財団法人栢森情報科学振興財団
1996年3月、情報科学分野で研究助成を行う初めての財団法人として文部大臣の認定を受け、ダイコク電機株式会社によって発足。今年で30周年を迎えた。自然科学・人文科学・社会科学を含む幅広い分野の情報科学の研究と、大学など研究機関によるフォーラムやシンポジウムの開催を助成対象としており、助成件数は860件、助成総額は7億4645万円に上る。
今回の30周年記念イベントでは、フューチャーマシンラーニングをテーマに、大学・企業の研究者によるパネル討論会や、AI/ロボットをテーマとした高校生・高専生論文の討論会、自律移動型ロボットの協議会「ロボカップ」および「ロボカップジュニア」の認知拡大を図るためのワークショップやデモンストレーションも併せて行われ、次の世代を担う人材の育成支援なども展開された。
第1講 今井むつみ氏「人はどのように知識を構築していくのか─記号接地とアブダクション」
最初に登壇した今井むつみ氏(一般社団法人今井むつみ教育研究所 代表理事)のテーマは「記号接地とアブダクション」だ。
聞き慣れない用語だが、意味はシンプルだ。言葉(記号)が現実世界の体験と結びついているかどうか、という問題である。認知科学者スティーヴン・ハルナッドが1990年に定式化した「記号接地問題」だが、AIが人間と見分けのつかない文章を書く時代になってくると、「このAIは本当に言葉の意味を理解しているのか」という問いが生まれてくる。生成AIの仕組みに立ち返れば、AIが意味を理解していないことは明白だが、これを今井氏は情報処理研究、AI研究とは異なる視点から説明した。
たとえば「りんご」という言葉を考えてみる。人間にとって「りんご」は、赤い色、手に持ったときの重さ、かじったときの酸味と甘さ、シャリッという食感といった身体的な経験の束と結びついている。
一方、大規模言語モデル(ChatGPTのような、膨大なテキストを学習して文章を生成するAI)にとっての「りんご」は、データの中で「りんご」と一緒に出現しやすい単語の統計的パターンに過ぎない。「果物」「赤い」「甘い」との共起関係は精密に学習しているが、実際にりんごを見たことも、触ったことも、食べたこともない。
今井氏はこの違いを「辞書だけで外国語を学ぶようなもの」と表現した。辞書では単語の定義が別の単語で書かれ、その定義にもまた別の単語が使われる。どこまで辿っても言葉が言葉を説明する循環から抜け出せず、現実世界との接点がない。これが記号接地問題の核心だ。
この問題提起で筆者が想起したのは、哲学者ジョン・サールの思考実験「中国語の部屋」だ。中国語を理解しない人間がマニュアルに従って中国語で応答する。外から見れば理解しているように映るが、中身は記号の変換作業でしかない。
今井氏が指摘した記号接地問題の本質とは、まさにこの「中国語の部屋」で起きていることそのものではないだろうか。
こうした問題——AIと人間の違いをより鮮明に映し出すのが、子どもの言語獲得プロセスだ。今井氏によれば、子どもは単語の意味を大人から正確に教わるわけではない。周囲を観察し、身体で試し、失敗と修正を繰り返しながら、言葉と世界の対応を自力で組み上げていく。
犬を見て「わんわん」と言い、猫を見ても「わんわん」と言う。そこで大人の反応や自分自身の感覚的な気づきを通じて、違和感を覚えることで少しずつ言葉の指す範囲が調整されていく。視覚、触覚、聴覚を総動員した能動的な学習がそこにはある。
今井氏はここで「アブダクション推論」という概念を紹介した。演繹や帰納といった推論プロセスとは異なり、「論理の跳躍」を伴う推論のことを言う。たとえば「犬は四本足で歩く。あの動物も四本足だ。だから犬かもしれない」と推測し、猫を見て「わんわん」と言ってしまう。これは誤りだが、その修正過程で「犬と猫の違い」という新たな知識が生まれる。自分で仮説を立て、失敗し、修正する。この繰り返しこそが知識を拡張させる。
今井氏によれば、人間の知識構築はこうした経験により、連続した知識探索からは外れた知見を得るアブダクション推論に支えられているという。しかし、生成AIは統計学習的により確からしい結果を生成するもので、これは根本的に質が異なるプロセスという指摘だ。
もうひとつ重要なのは、人間の概念形成が「身体に根ざしている」という点だ。私たちが「重い」を理解できるのは、重いものを持ち上げた経験があるから。「痛い」を理解できるのは、痛みを感じたことがあるから。こうした具体的な身体経験の蓄積が、やがて「責任が重い」「心が痛い」のような抽象概念の土台になっている。比喩表現の理解は、具体的な身体経験からの拡張として成り立っている。これらは現在の生成AIでは獲得できない経験である。
さらに今井氏は、AIにおける「フレーム問題」にも言及した。人間の子どもは、目の前の課題にどの知識を使えばよいかを、指示されなくても自分で判断できる。しかしAIには「どの知識を、いつ、どう使うか」の判断が極めて難しい。記号接地問題とフレーム問題は同根の課題であり、身体を持たないシステムが抱える制約だと今井氏は位置づけた。
では、マルチモーダルAI(テキストだけでなく画像や音声も扱えるAI)なら解決するのだろうか?
画像認識でりんごの見た目を分類できても、重さや匂い、果汁が喉を通る感覚を伴った理解とは別物だ。視覚と言語を統合しただけでは、身体全体を通じた多感覚的な経験の不在は埋まらない。今井氏の指摘は、テキストAIに限定されるものではなく、身体性を欠くあらゆるシステムに向けられたものだった。
第2講 岡田美智男氏「コンヴィヴィアル・ロボティクス:共棲社会にむけたHRIデザイン」
猫の顔をしたあの「配膳ロボット」は、いまや多くの飲食店で見かける。料理を運んでくるが、最後の配膳ではお客さんの手を借りる。この「不完全さ」が、周囲の人に思わず手を貸したくなる気持ちを呼び起こし、手を貸した側もどこか満足げだ――。
では、完璧なサービスロボットだったらどうか? 人間はただ見守るだけで、自分の経験や勘を発揮する機会を失ってしまう。この問いかけこそが、岡田美智男氏(豊橋技術科学大学 名誉教授/筑紫女学園大学 副学長)の30年に及ぶ研究の出発点だ。
岡田氏が提唱する「コンヴィヴィアル・ロボティクス」は、技術が人間を支配するのではなく、人間と技術が対等に共に生きる関係を目指す概念だ。「コンヴィヴィアル」はラテン語由来で「共に生きる」の意。思想家イヴァン・イリイチが1970年代に著した『コンヴィヴィアリティのための道具』の概念に基づいている。テクノロジーが便利さと引き換えに人間の自律性を奪うのではなく、創造的な活動を促す方向に設計されるべきだとする思想だ。
岡田氏が開発した中でも代表的な作品が「ゴミ箱ロボット」。街中をよたよたと動き回るが、自分ではゴミを拾えない。「拾って」と言葉で頼むわけでもない。ただ、ゴミの前で困ったようにうろうろする。すると、通りかかった人が自発的にゴミを拾って入れてくれる。ロボットが命令しているのでも、人間が奉仕しているのでもない。
ロボットの「弱さ」が、人間の側に潜んでいた協力行動を自然に引き出す。岡田氏によれば、人間には「助けを必要としている存在」に自然に手を差し伸べる傾向がある。高性能なロボットに対して人間は受動的になりがちだが、不完全なロボットに対しては能動的になる。しかもそれは「やらされている」のではなく、自発的に「やりたくなる」反応だという。
ほかにも、発話を途中までしかできないロボットが紹介された。「あの、ちょっと……」とだけ言って黙ってしまう。すると人間は「何? どうしたの?」と歩み寄り、対話が始まる。完璧な文章を話すロボットよりも、言いよどむロボットのほうがコミュニケーションを活性化させる。対話のデザインに対する常識を覆す発見だ。
パナソニックと共同開発した「NICOBO(ニコボ)」も興味深い。このロボットには実用的な機能がほとんどない。音楽を流すわけでも、スケジュールを管理するわけでもない。時おり意味のない音を出したり、なんとなく反応したりする。その「なんとなく」が利用者との間に独特の愛着を生む。「役に立たないけれど、いないと寂しい」。機能ではなく感情的な結びつきで関係が成り立つ。従来の工業デザインの発想では到達しにくい設計思想がそこにある。
岡田氏の講演タイトルにある「HRIデザイン」とは、Human-Robot Interaction(人間とロボットの相互作用)の設計を指す。従来のロボット開発が「人間の代替」を目指してきたのに対し、岡田氏が30年かけて追究してきたのは、人間とロボットが「ゆるやかに依存し合う」関係だ。ロボットの過剰な「お世話」は、人の主体性や創造性を奪いかねない。そうではなく、互いの主体性を損なわずに協力し合える関係をどう設計するか。「弱いロボット」はその問いへの回答であり、同時に実証でもある。
岡田氏の視点は、ロボットに限らずAI全般に通じるものだ。
すべてを先回りして処理するAIと、あえて余白を残して人間の判断を促すAI。ChatGPTに尋ねれば即座に答えが返ってくる便利さは確かにあるが、その便利さが人間の思考力をすり減らしていないか。介護の現場でも同じことが言える。ロボットがすべてを代行する世界と、高齢者自身の「できること」を引き出す世界。
後者のほうが人間の尊厳に近い。岡田氏の「弱いロボット」は、効率とは別の軸でテクノロジーの価値を測る視点を提示していた。
第3講 谷口忠大氏「集合的予測符号化が導くAIロボット共創社会のデザイン」
谷口忠大氏(京都大学大学院情報学研究科 教授)が問うたのは「言葉はどうやって生まれるのか」だ。第1講で今井氏が扱った記号接地問題は、個人の身体経験と言葉の結びつきに焦点があった。谷口氏の視点は、そこに社会的な次元を加えたものだ。
言葉は一人の頭の中で完結しない。複数の人間がやり取りを重ねる中から、共有された意味が立ち上がってくる。これが谷口氏の基本的な切り口であり、「記号創発システム論」として体系化されている。
その理論的な体系は「集合的予測符号化」(CPC: Collective Predictive Coding)と名付けられた考え方だ。背景にある「予測符号化」は近年の脳科学で注目されている理論で、脳が常に「次に何が起きるか」を予測し、予測と実際のズレ(予測誤差)を修正しながら世界を理解しているとするという仮説・概念である。
階段を上るとき、ひとは次の段の高さを無意識に予測している。段差が予想と違えばつまずくが、脳はその誤差を経験として獲得・修正し、次の予測をより正確にする。この学習が絶えず脳内で続いている。
谷口氏はこの仕組みを「自由エネルギー原理」(脳が予測誤差を最小化するように振る舞うとする統一理論)を足がかりに、個人の脳から社会全体へと拡張した考え方へと発展させている。集団内で個々人の予測モデルが、コミュニケーションを通じて互いにすり合わされていく。その過程で、共有された概念や言葉が自然に形成される。
身近な例がある。インターネットスラングの「草」だ。「w」(笑い)を連打した「wwwww」が草の生えた様子に見えるという連想が広まり、やがて「草」の一文字で「笑える」を意味するようになった。さらには「大草原」「森」といった派生表現まで生まれている。
このコミュニケーション体系は、当然ながら誰かが設計したわけではない。社会的なコミュニケーションの反復から、共有された意味が自然に浮かび上がり、さらに発展していった。これが「記号創発」、つまり言葉が社会の中から自然に湧き上がる現象の実例だ。
この視点から見ると、大規模言語モデルの設計思想との対照が鮮明になる。現在の大規模言語モデルは、既存のテキストデータを統計的に学習して言語能力を獲得する。だが、谷口氏の視点を借りて表現するならば、それは「すでに出来上がった言語体系」を模倣しているに過ぎず、言語が生まれるプロセスを再現してはいない。
辞書を丸暗記した人が言語を「使える」のと、言語が生成される社会的ダイナミクスとでは、次元が違うというわけだ。
谷口氏は、複数のAIエージェントが互いにコミュニケーションしながら独自の共有概念を発達させる実験も紹介した。各エージェントが独自の知覚を持ち、それを他のエージェントに伝える試みを繰り返す中で、集団内に「概念のようなもの」が立ち現れてくるという。言語を社会的プロセスとして捉え直し、その生成メカニズムそのものを計算機上で再現しようとする研究だ。
講演タイトルにある「AIロボット共創社会のデザイン」が示す射程は広い。谷口氏が目指すのは、AIを人間に「従わせる」(アライメントする)だけの関係ではない。
AIロボットが人間に与える影響も含めた結合系全体を視野に入れ、より創造的な社会を形成していくための学術理論と言えるだろう。言語の発生に「複数の個体」と「コミュニケーションの場」が不可欠だとすれば、基本的に単体で動作する言語モデルには盲点がある。谷口氏の研究は、その盲点を踏まえた上での次の設計を構想する試みといえる。
第4講 浅田稔氏「認知発達ロボティクスの昨日、今日、明日」
かつて日本がリードしていたロボティクス分野で後塵を拝している現状は否定できないが、その状況を打破するカギが「認知発達ロボティクス」にある。人間の赤ちゃんの発達過程をロボットで再現することで、知能の成り立ちを解明しようとするアプローチである。最後に登壇した浅田稔氏(大阪大学 工学博士・名誉教授/大阪国際工科専門職大学 副学長)は、この分野を20年以上にわたって牽引してきた。
核となるアイデアは「物理的身体性」と「社会的相互作用」だ。当初は前者が発達初期、後者が発達後期に関わると想定されていたが、研究が進むにつれ両者が最初から不可分に機能していることが分かってきた。
「フィジカルAI」と呼ばれる最先端のAI・ロボティクスでは物理的な作業がタスクの中心だが、物理的身体性と社会的相互作用が結びついていない点に問題があると指摘する。言い換えるなら、そこにこそ突破口があるというわけだ。
胎児期から始まる発達の連続性がそれを裏づける。イタリアの研究チームによる超音波映像の分析では、双子の胎児が妊娠14週の段階で、子宮の壁に押すときと双子の相手を押すときとでスピードが異なることが報告されている。相手を押すときはゆっくり慎重に動くという。「他者」を思いやるという社会的相互作用が、胎児の初期の段階から始まっている可能性を示すものだ。
この発達プロセスをロボットで再現する研究では、赤ちゃんが手足を無秩序に動かしながら自分の体を「発見」していく過程が再現される「バブリング」と呼ばれる現象がある。
赤ちゃんが意味のない声を出し続けるうちに、特定の音と周囲の反応の結びつきに気づくように、認知発達の能力を持つロボットは、ランダムな運動の中から有意味なパターンを自力で見出す。
這うことが立つことの土台になり、立つことが歩くことの土台になる。この「足場掛け」の構造は、人間が立って歩くようになるために飛ばすことができないプロセスだ。大規模データを一度に投入して訓練する手法とは対照的で、段階的で身体に根ざした学習の形がここにある。
浅田氏がとりわけ強調したのは「情動」の役割だ。快・不快や好奇心といった感情的反応は、知能の発達において論理や推論よりも先に土台が形成される。赤ちゃんは理屈で世界を把握するのではなく、母親の声に安心し、不快な刺激を避け、新しいものに好奇心を持って手を伸ばす。感情のフィードバックが、新たな知識探索の動機となり、知能の発達を下支えしている。
さて、ではロボットに認知発達能力を組み込んでいくのは、どうすればいいのだろうか。
浅田氏の構想では、まずは「痛覚」を実装し、人工的な共感の学習・発達過程を実現するという。人間同士のコミュニケーションと共感を通じて発達する能力こそ、未来の共生社会に必要なロボットの要件になると考えているからだ。
現在のAIが模倣しているのは、人間の知能のうち最後に発達する部分、つまり言語と論理的推論だ。だが人間の知能は、身体感覚と情動と社会的相互作用の上に言語が積み重なる多層構造になっている。知識や認知の土台となっているプロセスを飛ばし、その結果として得られている最上層だけを再現したシステムは、見かけ上は知的でも、知能の全体像とは異なるものだ。
浅田氏はウィーン大学の哲学者マーク・コッケルバーグの議論も引きながら、AIが社会に浸透することの意味にも触れた。スマートフォンが記憶のあり方を変えたように、AIとの日常的な対話は「考える」行為そのものを変容させうる。その変化にどう向き合い、設計にどう反映させるか。技術の問題であると同時に、社会全体の課題だと浅田氏は語った。
講演の最後に浅田氏が示したキーワードは「共生から共棲へ」だった。
「共生」が異なる種が同じ環境に存在する状態を指すのに対し、「共棲」はより積極的に互いの存在を前提として暮らしを営む関係を含意する。単にAIと共存するのではなく、AIとの相互作用の中で人間もまた変わっていく。その双方向の変容を受け入れた上で、よりよい関係をどう設計するか。認知発達ロボティクスの概念に取り組んで20年余りの蓄積は、その問いに応えるための基盤だと浅田氏は話した。
おわりに
4人の研究者が異なる角度から照らし出したのは、結局ひとつのテーマ――「AIが持たないもの」とは何だろう? AIの時代、これから取り組むべき、考えていくべきテーマとは何だろう? という話だ。

今井氏が示した身体に根ざした知識構築。岡田氏が実証した不完全さが引き出す人間の主体性。谷口氏が理論化した社会的コミュニケーションからの意味の創発。浅田氏が追究する情動と身体性に基づく発達。
それぞれ別の視点からAIとロボティクスの世界を覗き、論じているが、見えているのは同じ風景だ。大規模言語モデルは強力な技術だが、人間の知能とは異なる経路で「知的に見える振る舞い」を実現している。
この認識は、AIを否定するためのものではない。AIを使いこなすために必要な知見だ。
AIが生成する流暢な文章の裏に「理解」があるのかないのか。その判断ができるのは、身体を持ち、社会の中で言葉を獲得し、感情とともに世界を経験してきた人間の側だ。出力を鵜呑みにせず、限界を理解した上で活用する。今後、当たり前のこととして捉えられる“リテラシーの土台”を、4人の講演は異なる視点で提供していた。
もうひとつ、この講演から読み取れることがある。AIの限界を論じることは、同時に「人間とは何か」を照らし出す作業でもあるということだ。身体を持つこと、感情を持つこと、社会の中で言葉を獲得すること、段階的に成長すること。これらはAIにないものであると同時に、人間を人間たらしめているものでもある。AIという鏡に映ることで、私たち自身の知性の構造が見えてくる。
10年前に栢森情報科学振興財団の20周年記念として行われたイベントでは、「21世紀の人工知能──今日の、明日への鼓動を聴く」と題して、AIが社会に芽吹き始めた時代の可能性が展望された。今回、30周年の講演が浮かび上がらせたのは、その人工知能が何を『していない』のかだった。
AIがすべてを解決してくれるかのように見える時代だからこそ、人間の知性の成り立ちに立ち返る意味がある。栢森情報科学振興財団がこの節目に選んだテーマは、まさに生成AI時代が隆盛する現代における問題に正面から向き合うものだった。






