特集
村井純氏が総括する「インターネット文明」のこれまでと、次世代につなぐバトン
「インターネット白書」30周年特別インタビュー 全文公開
2026年2月27日 06:00
日本の大学間ネットワーク「JUNET」の構築以来、インターネットの技術と思想を牽引し、日本のインターネットの父と呼ばれる村井純氏。コンピューターと通信、アカデミズムとビジネスなどさまざまな境界を越えながら築かれてきた「インターネット文明」は、いま私たちの生活に深く溶け込んでいる。誕生から40年余を経たインターネットをどう振り返り、次の世代へ何を託すのか。『インターネット白書』30周年の節目に、その原点と未来を聞いた。
(聞き手:インターネット白書編集部、写真:渡 徳博)
計算機史の2つの系譜——メインフレームとマイコンの邂逅
編集部:『インターネット白書』は今年で30周年を迎えましたが、先生がインターネットに関わってこられた時間は、すでに40年を超えています。まずは、その原点となったコンピューターとの出会いから振り返っていただけますか。
村井氏:たぶん、そこを理解するには、コンピューターの進化には明確に2つの流れがあったことを意識する必要があります。
一つは、メインレームからミニコン、そしてワークステーションへと至る、計算機科学(コンピューターサイエンス)の王道です。もう一つは、そこから派生して生まれたマイコン(マイクロコンピューター)からPC(パーソナルコンピューター)へと至る系譜です。
例えば、当時PCの普及に大きな役割を果たしたアスキーやマイクロソフトのビル・ゲイツ氏などはマイコンに出会うことで人生を変えた世代です。彼らにとっては、自分でコントロールし、プログラムを書けるという体験が原点でした。一方で、私たちがいた世界は「計算機としてのコンピューター」をいかに高度に扱うかという世界でした。1955年生まれの私たちの世代は、高校生くらいの時にこの両方の流れに出会っているんです。銀行などが使い始めていたメインフレームの世界と、自分たちで触れるマイコンの世界。真面目な計算に興味を持つか、それともコンピューターそのものの構造やプログラミング、あるいは「自分で作れる」ということに興味を持つかで、道が2つに分かれました。
私は、コンピューターそのものには興味がありましたが、単なる「計算機」としての役割にはあまり引かれませんでした。むしろ、コンピューターがいかに「人間の役に立つ道具」になれるかという点に引かれたのです。そして1969年、UNIXが誕生します。これが決定的な解放をもたらしました。
UNIXは、高価なメインフレームやミニコンを複数の人間が共有して使う「タイムシェアリング(TSS)」の概念を確立しました。一方で、マイコン派は「1人のユーザーが1台を独占する」というPCの流れを作りました。この2つの流れが、1970年代の前半に出会うことになります。ワークステーションは1人で使うにはまだ高価すぎましたが、研究者が個人で専有できるコンピューターとしての可能性を示し始めていました。
私はこの時期にコンピューターに出会っていたので、計算するだけでなく、ワープロを使えたり、ベル研究所でUNIXが開発されたりする流れの中で、「人間の役に立つソフトウエア」を載せるためのプラットフォームとしてのOS(オペレーティングシステム)に魅了されたのです。
つながることの必然性——「人間中心」のネットワークへ
編集部:そのOSへの興味が、なぜ「つながる」こと、すなわちネットワークへと発展していったのでしょうか。
村井氏:コンピューターが人間のために仕事をするには、コンピューター同士がバラバラであってはいけないという結論に達したからです。人間同士が協力するように、コンピューターもつながっていた方がいい。それが私の大学学部時代の夢になりました。つながることは、コンピューターが人間にできることを広げるための必然だったのです。
当時、私は慶應義塾大学の中で、独自のプロトコルを作って大学内をつないだり、工学部の学科を全部つないだりといったデモンストレーションから始めました。後に北海道から九州・沖縄までをつなぐ「JUNET」へと発展していきますが、根底にあったのは「人に貢献し、理解してもらうためには、実際に動いて役に立つものを見せなければならない」というエンジニアとしての信念でした。
計算機科学者の間でも、「作ってなんぼ」という人と「理論を書いてなんぼ」という人がいますが、私は圧倒的に前者、それも「使ってもらってなんぼ」という立場でした。マイクロプロセッサーが出てきて、「1+1=2」が画面に出るだけで「すごい!」と喜んでいた時代から、人々が実際に使う道具へと進化していく。そのプロセスが面白くて仕方がなかったんです。自分で作ったもエンジニアが作った未完成のものが、少しずつ人の役に立ち始めて道具へと進化していくのが人に使ってもらえる。その喜びが、日本中、そして世界中をつなげばもっと多くの人が喜ぶだろうという、インターネット構築への衝動につながったのです。
BSD UNIXの衝撃——シリコンバレーの「あけぼの」
編集部:村井先生は「日本のインターネットの父」とも呼ばれていらっしゃいますが、その技術開発の過程はどのようなものだったのでしょうか。
村井氏:ネットワークをインターネットという形に結実させた中心地は、カリフォルニア大学バークレー校のUNIX(BSD)チームにTCP/IPを入れるという契約がなされた場所でした。私はそこCRC(Computer Systems Research Group)の人たちと一緒に仕事をしていました。
後にサン・マイクロシステムズの創設者となる、同い年のビル・ジョイ氏もいました。ビルはコードを書くのが面白すぎて修士論文が書けず、周りの連中が彼の書いたBSD UNIXのマニュアルを教授のところに持っていって、「これを修士論文にしろ」と迫って学位を取らせたなんて逸話もあります。私もやっていたことはひたすらソフトウエアの開発でした。
当時のソフトウエアは本当に「ろくでもない」ものでした(笑)。1980年代初頭、ビルがデモンストレーションに立っていて、「ついにウィンドウが4つに分かれるようになったぞ!」と自慢げに話していたのを覚えています。私が画面を触ろうとすると、「触るな! 落ちるじゃないか!」と怒鳴られました。それくらい、ギリギリのところで動いていたんです。でも、そのエンジニアが作った未完成のものが、少しずつ人の役に立ち始める、あの瞬間の興奮がインターネットの原動力でした。
サン・マイクロシステムズがガレージで立ち上がった時、初期の最大の顧客の一人が映画監督のジョージ・ルーカス氏でした。彼は『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』などの制作のために、サン・マイクロシステムズのワークステーションを大量に購入してくれたんです。
ルーカスは、コンピューターで映画が作れる時代が来ることを確信し、いわば「未来への投資」として彼らを支えました。もし、あの大型投資がなければ、シリコンバレーのサクセスストーリーは今とは違うものになっていたかもしれません。インターネットの本質的な原動力は、こうした「人の役に立つ環境を作ろう」というエンジニアの情熱と、それを支えた先見性のある人々、そしてUNIXを通じてソースコードが世界中に配られたことにあります。TCP/IPのソースコードがBSD UNIXに含まれて世界中の大学に配られたこと、これこそがインターネットの真のルーツであって、決してARPANETだけが答えではないんです。
多言語化という難題——日本が果たした最大の貢献
編集部:その中でも、日本のインターネットが世界に果たした貢献として、文字コードの多言語化(I18N)の話は極めて重要だと思います。
村井氏:そこが一番、私がやってきたことの中で大きな部分かもしれません。UNIXの国際化をするとき、当時、アスキーがPC用OSの日本語化をやっていました。彼らは、米国のソフトウエアを日本で売るために、日本語化を力技でやっていました。その結果生まれたのが「シフトJIS」という文字コード体系です。本来のASCIIコードの隙間にJISの文字を強引に突っ込むという手法で、これにより日本語が使えるPCのソフトウエア市場が立ち上がりました。
しかし、UNIXというOSの世界にそれを持っていこうとすると、グローバルなコミュニティを説得しなければなりません。米国のコンピューターサイエンティストたちは、当時、世界中に英語を話さない人がいるなんて想像もしていないような連中ばかりでした。数学と研究室だけが自分たちの宇宙だと思っているような人たちです。
一方で、ベル研究所にはロリンダ・チェリー氏のような人がいて、出版技術としてUNIXを使う研究をしていました。そこで突き当たったのが、1バイト(256文字)の壁です。英語なら1バイトで十分ですし、スペースで単語を区切れるからバイト単位の処理と文字の処理をごちゃ混ぜにできました。しかし、日本語は3000文字、あるいは6000文字の漢字を扱わなければなりません。
私たちは、1ビットパリティを切り捨てた128文字の世界に閉じこもっている彼らを説得し、マルチバイト、具体的には16ビット(6万5000文字)で文字コードを設計しようという議論を始めました。これがUnicodeやEUCといった標準につながっていきます。
重要なのは、インターネットが本格的に広まる「前」にこれが完了していたことです。もしこの多言語化の設計が標準化の段階でなされていなければ、インターネットがつながった瞬間に、電子メールもウェブも、世界中で言葉の壁にぶつかって、今のような広がりは見せなかったでしょう。
日本は、米国以外の代表として、米国中心・英語中心にならないための使命を果たしてきました。タイムゾーン(時差)の概念や、縦書き、右開きといった文化の多様性をコンピューターに理解させる。この「ロケール(Locale)」という概念の導入に貢献したことは、日本のインターネット業界が誇るべき実績だと思っています。
IPv6——全人類がつながる未来の設計
編集部:IPv6についても、先生は多大な貢献をされています。
村井氏:ネットワークの原理に「CSMA/CD」という仕組みがあります。誰もしゃべっていないのを確認してしゃべり、ぶつかったらサイコロを振って待ち時間を変えてやり直す。このシンプルなアルゴリズムをハワイ大学のALOHANETで作ったのが、フランク・クオ氏です。
私はフランクのところに何度も通い、マンツーマンでガバナンスやマネジメントについて教えを請いました。フランクはある日、私に言いました。「純、いつの日か中国がインターネットにつながってくる。その時のことは頼むぞ」と。
当時の中国には、インターネットにつながったコンピューターなんて1台もありませんでした。でもフランクは、中国が、そして全人類がつながる時代を見据えていた。私はがくぜんとしました。当時のIPv4、32ビットのアドレス空間(約42億個)では、中国やインドの人々が全員つながったら、そして1人が複数のデバイスを持ったら、全く足りない。
これがIPv6(次世代インターネットプロトコル)のアドレス空間を広げる議論を80年代後半から急いだ最大の動機です。米国や欧州の人々は、時として「自分たちの周り」しか見ていないことがあります。でも私たちはアジア太平洋の立場から、数億人、数十億人が同時につながるネットワークのモデルを考えなければならなかったのです。欧州のダニエル・カーレンバーグ氏、そしてジェフ・ヒューストン氏、私の3人は、常にこの「グローバルなインターネット」の視点を維持し、米国中心のスタンダードにならないように働きかけてきました。
この過程で、NTT武蔵野通信研究所やKDD研究所といった組織の研究者らと共に、スケーラブルなネットワークを構築するためのハードルを一つひとつ越えていったのです。
アカデミズムの壁——インターネット普及前を支えた岩波書店
編集部:技術的なハードルだけでなく、社会的な、あるいは制度的な壁も多かったのではないでしょうか。
村井氏:むしろ、そちらの方が大変でした。最大の壁は「アカデミズム」と「ビジネス」の両面にありました。当時はインターネットがもうかるなんて誰も思っていなかったし、ビジネスの世界は常に慎重で遅い。
私が東京工業大学から東京大学に移った際、産学共同の研究組織である「WIDEプロジェクト」を通じて民間企業(アスキー、SRA、CSK)とネットワークをつなごうとしました。ところが、「国立大学のリソースを民間企業が使うのは国有財産管理法に抵触する」というわけで東大の教授会からも「できない」と言われました。
当時の東大の教授たちはプライドが非常に高く、慶應義塾大学出身の私が助手として文部科学省に予算を取りに行っても、東大出身の役人たちからは「東大以外の大学を入れるな」なんていう話が出るような閉鎖的な時代です。
ところが、彼らが唯一、認めていた存在が岩波書店です。「岩波書店から本を出すために学者になった」というような教授がゴロゴロいたのです。
そこで、岩波書店の宮内久男氏らに相談しました。彼らはコンピューターに非常に理解があり、「地下室が空いているから、そこにネットワークのハブを置けよ」と言ってくれました。岩波書店の地下に拠点を置き、そこから東大、東工大、アスキー、SRAへとつなぐ。これなら文句は言われません。日本のインターネットの「あけぼの」は、こうした出版文化の信頼性と、新しい技術を言葉で説明し、普及させる当時の出版界の侍たちに助けられて実現したのです。私が博士課程の学費を稼げたのも、UNIXやC言語に関する執筆を出版界が支えてくれたおかげです。ビジネスとしてのインターネットが成立するまでの「冬の時代」を支えたのは、間違いなく出版の力でした。
通信派vs.コンピューター派——終わらぬ宗教論争
編集部:インターネットの普及過程で、既存の電気通信事業者との摩擦も大きかったと聞きます。
村井氏:それはもう、今でも続いている「宗教論争」です(笑)。通信派(電話会社)とコンピューター派(インターネット派)は、根本的な設計思想が異なります。
通信派のDNAは「通信効率の最大化」にあります。帯域は高価だから、いかに情報を圧縮し、トラック(回線)に荷物を埋められるだけ埋めて運ぶか。これが彼らの正義です。そのため、ネットワークの中身(交換機)を非常に高価で賢いものにし、末端の端末(電話機)はバカでいいという「交換機中心」のモデルを作りました。対して私たちコンピューター派の思想は「エンド・ツー・エンド(End-to-End)」です。端っこのコンピューターが賢いのだから、ネットワークの中身を中継する装置はバカでもいい。空っぽでもいいから、1秒でも早くデータを出せ。32ビット以下の細かいことは気にするな。トラックに小さな荷物が1つでも、すぐに出発させろ。これが私たちの「スピード中心」「コンピューター主義」のモデルです。
最近、NTTが提唱している「IOWN」についても、全く同じ構図が見て取れます。光の技術(APN)自体は素晴らしい。電力ロスを減らし、低遅延を実現するために光電融合技術は不可欠です。しかし、かつてのATM(非同期転送モード)のように、電話会社が端から端までを自分たちの管理下に置き、制御しようとするならば、インターネットではありません。インターネットの強みは、品質の良くない回線や異なる技術が混在していても、末端のコンピューター同士が責任を持ってデータを届ける「ベストエフォート」と「自律分散」にあります。通信事業者がアセット(設備)を独占し、エンドシステムを安価にするモデルに戻ろうとする動きには、私は常に反論してきました。光は大事ですが、それをどう使うかというサービスレイヤーにおいて、インターネットの自由度を奪ってはならないのです。
到達点と責任——インターネット文明と「空気」になったネットワーク
編集部:現代の若者、例えばアップルのiPhoneが誕生した2007年生まれの「スマホネーティブ」世代にとって、インターネットはもはや存在を意識しない「空気」のようなものになっています。
村井氏:ある時、慶應義塾大学SFCの1年生に「タイムマシンがあったらどこに行きたいか」と聞いたら、「インターネットがなかった時代に行ってみたい」という答えが返ってきたんです。江戸時代や恐竜時代ではなく、インターネットがない時代が、彼らにとっての最大の「未知」なんですね。「インターネットなしでどうやってデートしてたんですか?」「レストランはどうやって見つけてたんですか?」と真顔で聞かれます。
それほどまでに依存し、当たり前になった。この「空気化」こそが、私たちが40年かけて作ってきた世界の現状の到達点であり、同時に大きな責任を伴うものです。
私はこれを「インターネット文明」と呼んでいます。デジタル文明よりも広い概念です。インターネットを通じて世界中で連携し、知恵を共有する、それがインターネット文明なのです。
デジタルは手法ですが、インターネットは「空間」であり「思想」だからです。誰にでも計算の機会が開かれ、データが集まり、新しいものを作っていける。この自由で開かれた環境をインターネットと定義するならば、これこそが人類が手に入れた、数学や言語に並ぶ「共通の道具」、つまりは「文明」なのです。
AI、量子——技術トレンドと自律分散のレジリエンス
編集部:AI(人工知能)の急速な進化も、インターネットの構造に大きな影響を与えています。
村井氏:AIの進化も、結局はインターネットが提供してきた「分散処理」の結果です。地球上の至るところにコンピューターがあり、それがつながって人間のためにサービスを提供する。その過程で膨大なデータを集め、膨大な計算を分散して行うことで、今のAIは成り立っています。
私はAI時代に対しても楽観的です。なぜなら、インターネットの本質は「自律分散システム」だからです。どこかが壊れても他で動く。負荷が高まれば分散する。この強靭(きょうじん)さ(レジリエンス)がある限り、AIがいくら巨大化しても、ネットワークがパンクして崩壊することはありません。コンピューターはどんどんと安くなり続けます。今のスマホ1台の能力をまだ1割も使い切っていません。世界中のスマホが連携して1つの計算をするようになれば、さらにとんでもないことができます。
量子コンピューターについても同様です。公開鍵暗号が破られるいわゆる「Xデイ」の懸念はありますが、すでに耐量子計算機暗号(PQC)などの準備も進んでいます。技術が発展しても、インターネットという「自律分散の運用」そのものが止まることはありません。もはや、インターネットなしで動ける国や社会は存在しないからです。
ガバナンスの未来——エンド・ツー・エンド原則をどう守るか
編集部:一方で、フェイクニュースやプロパガンダ、インターネット上の犯罪など情報空間のガバナンスが深刻な課題になっています。あるいは政治的意図によるインターネットの遮断のようなことも起きています。
村井氏:それは人間社会の問題であって、インターネットそのものの問題ではありません。酸素が犯罪に使われたからといって、酸素を止めるわけにはいかないのと同じです。重要なのは、全ての人がインターネットの存在を意識するようになった結果、政治的な介入や安全保障の議論が避けて通れなくなったことです。犯罪や殺りく兵器の技術が共有されるのをどう防ぐか。これは社会や国際社会が決めていくべきことです。
しかし、その際、私たちは政治家やリーダーたちに、インターネットの「ベースコア」がいかに大事な役割を果たしているかを根気強く伝え続けなければなりません。地球の温暖化を止める議論と同じように、「インターネットは共通の財産として動き続けなければならない」という認識を、世界中で持つ必要があります。
ガバナンスにおける私の信念は、やはり「エンド・ツー・エンド」です。例えば情報の信頼性を証明する技術などをブラウザーなどの「末端(エンド)」に組み込む。送り手と受け手が互いを特定し、信頼できるソースを選択できるようにする。これを政府がトップダウンで規制するのではなく、エンドユーザーが自身の権利と判断で行えるようにする。これがインターネット式の解決策です。インターネットの構造(アーキテクチャ)を変えるのではなく、その上のアプリケーションや社会的な調整で問題を解決していく。この健全な調整機能を、私たちは維持していかなければなりません。
未来を創る人たちへ——ブラックボックスを恐れず、自ら構築せよ
編集部:最後に、未来を創る人たちにメッセージをお願いします。
村井氏:一つは、ポリシーを決める立場の人たちへ。インターネットがどうして動き続けているのか、その「自律分散」の仕組みと、デジタル化されたデータの真の価値を深く認識してほしい。誰かの王様が支配するのではなく、全員が参加して守り続けるこの空間の価値を、政策の根幹に据えてほしいのです。
もう一つは、若い世代へ。私たちがやってきたことは、「自分たちで作ったものが人の役に立ち、社会を変えることができる」という証明でした。今はブラックボックス化が進んでいますが、インターネットも、AIも、映像が届く仕組みも、決して魔法ではありません。そこには必ず、誰かが考えた「からくり」があります。
「なぜこれが動くのか」という興味を持ち続けてください。インターネットは、自分の手で未来を構築し、夢を実現できる開かれた環境です。ブラックボックスを恐れず、自らその仕組みに分け入り、参加し、新しいインターネット文明を築いていってほしい。そうした人たちが現れる限り、インターネットの未来は明るいと信じています。
編集部:30年という節目に伺った今日のお話は、これからの30年を創る人々の指針となるに違いないと思います。ありがとうございました。
村井 純(Murai Jun)
慶應義塾大学特別特区特任教授。1984年、日本の大学間ネットワーク「JUNET」を設立し、国内インターネットの礎を築く。1988年にはインターネット研究プロジェクト「WIDEプロジェクト」を設立。元内閣官房参与。デジタル庁顧問、各省庁委員会主査などを多数務める。IEEE Internet Award、ISOC Postel Awardを受賞し、2013年には「インターネットの殿堂」入りを果たした。






