特集

自転車に機材を載せて夜の都内を走る! ~IIJも手探りだったISP事業初期

IIJ インターネット商用利用30周年記念インタビュー 前編

IIJ 技術研究所所長 長 健二朗氏

 2022年に、日本でのインターネット商用利用が30周年を迎えた。その30年前、1992年に設立されたのが、日本のISP(インターネットサービスプロバイダー)の草分けである株式会社インターネットイニシアティブ(IIJ)だ。IIJは1993年にインターネット接続サービスを開始しており、今年2023年で30周年となる。

 本インタビューは、インターネット商用利用30周年という節目にあたって、サービス開始当時から現在までを振り返る趣旨で、IIJ 技術研究所所長の長 健二朗氏にお話を伺ったものだ。なお、専門的な情報のサポートとして、同社の小西 将一氏(サービスプロダクト推進本部 サービス推進部 技術支援7課)、佐々木 太志氏(MVNO事業部コーディネーションディレクター)にもコメントをいただいている。また、語り手と聞き手の中間のような立場で、堂前 清隆氏(広報部 副部長/テクノロジーユニット シニアエンジニア)にご参加いただいている。

 前編となる今回は、IIJ設立当時のインターネットの状況に始まり、アナログ専用線からデジタル専用線、ダイヤルアップ接続、ブロードバンドと国内のインターネットのインフラが変化とP2Pファイル交換ソフトの流行など、およそ2000年代中盤までの話題を取り上げる。(聞き手:編集部/構成:高橋正和)


インターネットの「利用者」と「提供者」が生まれた

――まずは、インターネット商用利用30周年という文脈を踏まえて、「IIJとはどういう会社か?」をご紹介ください。

IIJ 広報部 副部長/テクノロジーユニット シニアエンジニア 堂前 清隆氏

堂前氏:「インターネットの商用利用とは?」というところから、お話ししましょう。黎明期のインターネットは、簡単に言えば複数の組織が持っていたネットワークを相互接続したものでしたが、当時は「共同運営・共同利用」と言える状態でした。

 そうした状態から変化し、お金をいただいてビジネスとしてインターネット接続サービスを提供したことが、最初の「インターネットの商用利用」となります。接続事業者(ISP)と、利用者という立場の違いが、商用利用によって生まれました。

――インターネット上でビジネスを展開する、といったことの前に、接続サービスを提供することが、最初の商用利用だったのですね。共同運営のようなかたちからの変化は、かなり大きかったでしょうね。

堂前氏:そうですね。IIJは1992年に設立しました。それまでのWIDEプロジェクトでの研究目的を脱皮して、商用利用しようとした研究者たちが立ち上がって作った会社がIIJだと思っています。

 ほかにも同時期にISP事業を開始した会社が何社かあります。そうした会社の1つとして、インターネットを研究者以外にどう提供するか、完全に手探りの試行錯誤から始まりました。

:WIDEプロジェクトは、1988年に発足した、UNIXとネットワークの研究者が集まって設立された広域分散システムの研究プロジェクト(前身の「WIDE研究会」は1985年発足)。WIDEは「Widely Integrated Distributed Environment」の略。関連技術を日本国内に広め、国内のインターネットの礎を築く役割を担った


日本独自の事情に合ったサービスを模索

――当時、海外にもISPはあったのでしょうか。

堂前氏:世界最初のISPはアメリカでした。しかし、日本には日本の事情があり、アメリカと全く同じようにはできません。NTTが電話やデータ通信の事業をしている中で、どのようにしてインターネットのサービスを提供するか、再定義しなくてはなりませんでした。そこで、アメリカの事例を見ながら、日本風にアレンジして日本で提供するのが重要なミッションだったと思います。

長氏:私はWIDEプロジェクトに1995年から関係して、2001年からボードメンバーにもなっています。まだISPがない頃は、日本ではインターネットにつなぐのはWIDEプロジェクトに参加した大学や企業に限られていました。

 そこからやがて、日本でも商用利用のISPが必要だということで、WIDEからも何人かのメンバーが出てIIJの初期メンバーになったと理解しています。

 商用利用が始まる前のインターネットは、学術用途のみで商用利用はできないというポリシーになっていました。もっとも商用利用といっても、電子取引ができたわけではないので、メールのやり取りぐらいですが。

堂前氏:そこにIIJなどの商用ISPができて、誰でもお金を払えば使えるようになりました。しかも、学術用途に限るというような制限もなくなります。

小西氏:最初の頃は、IIJのNOC(Network Operation Center:インターネット接続サービスのための設備が集まった拠点)に、お客様(クライアント企業)の電話回線や専用線が全部直接つながっていました。私がIIJに入社したのは1996年ですが、その頃はNOCが全国に7~8カ所ありました。

堂前氏:IIJはインターネットの一部なので、お客様からIIJにつながって、そこからインターネットにつながる。特に当時は「インターネット≒アメリカ≒世界」という状況だったので、そこにつながる窓口をIIJが持っていたわけです。

長氏:ちなみに、2001年に発生した米国同時多発テロ以前は、インターネットはほぼすべてアメリカに集中していました。テロが起こって、アメリカに何かあったときにインターネットが止まってしまうのは大問題だということで、急速にアメリカ集中ではないインターネットを作る動きになりました。


技術者が1社ずつ客先に機材を持ち込んで接続

――初期の接続サービスはどのようなものだったのでしょうか。

堂前氏:一番はじめは「UUCP」(Unix to Unix Copy Protocol)という、モデムによる間欠接続が中心でしたね。リアルタイムで何かやることはなくて、大学や会社のサーバーに電子メールを貯めておいて、1日に何回か、まとめて送受信するという。

 IIJで提供した一番最初のインターネットらしいサービスが、専用線接続だったと思います。間欠接続ではなくて、常時つなぎっぱなしにするサービスを提供したと。昔の資料によると、このときはモデムを使ったアナログ専用線で、ISDNの64kbpsよりもさらに遅いものです。それでも当時は数十万円いただいていたようです。

小西氏:手元に1996年1月時点の顧客向けの資料(下図)がありますが、このときはもうデジタル回線になっていますね。

1996年1月5日付けのIIJ「インターネット接続サービス」資料より。当時のNOCとダイヤルアップ接続用の回線数、バックボーンの回線などが記載されている。小西氏がこの資料を取り出すと、IIJの皆さんから「こんな古い紙資料が傷みもなく残っているとは」と声が上がった

堂前氏:デジタルになる前だと、NOCにモデムが並んでいて、そこにアナログ専用線がいっぱい引き込まれて1個1個つながっている。そこからシリアルポートで、一番最初だとUNIXワークステーションに、その後の時代だと専用の機材に接続して、インターネットにつながっていました。

 その後デジタルになると、モデムからターミナルアダプターに変わっていくんですが、基本的には同じく1回線を1つの機材につなぐ形でした。なのでNOCの中はケーブルだらけでしたね。

佐々木氏:お客様から申し込みがあると、われわれ技術部隊にオーダーが来て、NOC側で回線を受け付ける用意をします。当時は、お客様との間の回線もわれわれが手配していたんですよね。それが開通すると、外回りのエンジニアが、接続用の機材を持ってお客様にお邪魔して、線をつなぐ。携帯電話はもうあった時期だったので、それでNOCと電話して、開通を確認していました。当時は機材も軽くなかったのですが、それを持って1日に何件も回っていたわけです。

――なかなか肉体的に大変そうな作業が多いですね。

堂前氏:それと並行して、ダイヤルアップ接続も出てきましたね。

佐々木氏:Windows 95が発売になった1995年頃には、すでにISP各社がダイヤルアップのアクセスポイントを展開していたと思います。当時はAscendという会社の「MAX」という機械があって、NOCに設置していました。

小西氏:私が入社する前ですが、最初は「PortMaster」という機械にモデムをつなげていて、10回線あったら10個モデムをつなげるかたちでした。

 その後出てきたのが、Ascend社の「MAX4000」という機械でした。MAX4000は、本体にINS1500回線を直接挿せる。INS1500は通話・通信に利用するチャネルが23本まとまっていて、1本で電話23回線と同じです。MAX4000のカードスロットにモデムチップが複数載ったカードを装着できるので、機器がぎゅっと集約されました。

――専用機器によって、大規模な回線が扱えるようになったわけでしょうか。

堂前氏:そうですね。この頃になるとアクセスポイントに電話をかけるという概念が明確になってきましたね。

当時のNOC内の機材。上段はISDNのDSU(Digital Service Unit)、下段はMAX
こちらも当時のNOC内の機材。Ciscoのゲートウェイサーバー「AS5300」


インターネット側からのダイヤルアップも!?

小西氏:IIJの法人向けダイヤルアップ接続サービスには、1人の人がモデムとPCでつなぐ普通の端末型ダイヤルアップのほかに、ネットワーク型ダイヤルアップというものがありました。

 普通の端末型ダイヤルアップではお客様からアクセスポイントに電話をかけます。一方、ネットワーク型ダイヤルアップでは、お客様にグローバルなIPアドレスを割り当てて、インターネット側から通信が発生した際に、IIJからお客様に電話をかけて接続する、という仕組みです。

――そのような仕組みがあったんですね。

堂前氏:どうやってインターネットを提供すればいいかがまだ固まっていなくて、いかに電話回線を使ってインターネットを実現するかの模索があった時代という感じですね。そのうち、お客様はインターネットからのデータのダウンロードがメインになったり、一方で専用線に移行したりと分かれて、だんだん今のインターネットができていったと。

佐々木氏:専用線がすごく高価だったときに、端境期として需要があったサービスだったと思います。専用線の料金が急速に低下していくと、もうサーバーサイドは全部専用線で作ってしまおうということで、使い分けが進んでいったんじゃないかなと思います。

インターネットマガジン バックナンバーより、「INTERNENT Magazine」1995年6号に掲載した「商用ネットワークサービスプロバイダー接続マップ」。INTERNENT Magazineではこの号から2001年10月号まで同マップを更新していくが、その間に、インターネットの規模は大変な勢いで拡大していく


個人向けISPの競争激化で回線の取り合いに

――IIJでも個人向けのダイヤルアップ接続サービスがありましたね。

小西氏:1996年に個人向けサービスの「IIJ4U」が始まって、そこで個人向けのダイヤルアップ接続を用意しました(IIJ4Uは2016年に「IIJmio」に統合)。そのあたりから回線や機械が増えましたね。

堂前氏:あの頃は個人向けISPの価格競争が激しかったですね。利用者数もものすごく増えて、ISP間でISDN回線の奪い合いもありました。回線を引こうと思っても、NTTの設備が足りないので追加で引けない。それで余裕が出たら、いろいろなISPが押し寄せるという。

小西氏:IIJでも回線をまとめて発注していましたね。INS1500には、複数の回線をグループ化して、1つの電話番号にかけるとグループ内の空いている回線に着信する、代表組という仕組みがありました。バラバラに注文すると代表組に入れられないということもあって。

堂前氏:大規模なISPはまとめて発注して、そうでないISPではバラバラに注文するので、東京第1アクセスポイントや第2アクセスポイントのように分かれるという。

――当時、そうしたISPがありましたね。そういう理由だったのですね。

堂前氏:ダイヤルアップ大全盛期で、インプレスの「インターネットマガジン」でも、アクセスポイントの話中調査をしていましたね。当時はどのISPに電話回線が豊富にあって、電話かかるかどうかが生命線で。

――ありましたね。「テレホタイム」に出遅れたら回線が一杯でつながらないとか。


1995から2000年まで続いたテレホーダイ対応

堂前氏:テレホーダイもありましたね。IIJでもテレホーダイの時間帯の混雑って、観測していましたっけ?

注:テレホーダイは、NTT東西が1995年から提供した、23時~翌8時までの間、特定の電話番号に対する通話料金が定額になるサービス。当時のダイヤルアップ接続では、接続時間に応じた料金が課されたが、テレホーダイの対象にISPのアクセスポイントを設定することで、23時~翌8時の間は定額で利用できた。この時間帯は「テレホタイム」と呼ばれ、23時になると多くのユーザーが接続するため、出遅れたユーザーが接続できなくなったり、突然回線が重くなったりする現象も起こった

小西氏:ユーザーが増えてからは、ありましたね。夜間は回線利用者数が増えるので、回線や機器を増やそうかと考えたり。

堂前氏:回線もそうですが、サーバーも混みましたね。当時の個人向けサービスは、ダイヤルアップ接続と、電子メールアドレスと、ウェブの個人ページの3点セットでした。IIJ4Uのウェブサーバーヘのアクセスも、23時からのピークに耐えるのに苦労して。そのピークに耐えるためだけにウェブサーバーを追加したり、CDNの前段階の機能のようなものを作ったりしました。

 当時はまだサーバーも安定しなかったので、担当者も毎晩23時から朝まで、サーバーが止まったら即時に切り離してリブートするというような対応をしていましたね。

 まだクラウドはなくて、一台一台対応して。夜中にハードウェアが故障して、自転車のカゴにハードディスクやサーバーを突っ込んで駆けつけるなんてこともありました。それで不審者扱いされて職務質問されたという“伝説”も(笑)。

――(笑)。そのぐらい必死で対応していたんですね。

長氏:振り返ってみると、テレホーダイが1995年に始まって、個人の常時接続が2000年のフレッツ・ISDNからなので、5年間は必死にテレホーダイに対応していたわけですね。

――この頃は、どういう通信がどれくらい行われていたのでしょうか。

長氏:この頃のちゃんとしたデータは残っていません。大学や企業が中心だった頃は、数ではメールが多いと思いますが、データ量としてはFTPでのソフトウェアのダウンロードが圧倒的に多い。それが、個人で接続するようになった途端に、趣味のコンテンツをダウンロードするように変わりましたね。

堂前:テレホーダイは、短い時間でアクセスするかをみんな工夫してた時期でもありましたね。「波乗り野郎」のような自動巡回ソフトで指定したサイトをコピーしてきて後からローカルで読んだり。

――ありました、ありました。

長氏:ソフトウェアに関しては、FTPのミラーサイトをいくつか立てて、人気のソフトウェアはできるだけ近いところから取ってくるということも行われていましたね。

堂前氏:東北大学の「秋保窓」――現在の「窓の杜」などありましたね。あとRINGサーバープロジェクトも。窓の杜からダウンロードするときも、一番近いところを選ぼうということで、ダウンロードリストが20くらい表示されたりしていました。

注:ミラーサイトとは、オリジナルから複製した同じ内容のサイトのこと。インターネット初期には、物理的に遠いサーバーにアクセスすると、ネットワーク上でも長い経路を辿ることになることから、通信速度が大幅に低下することがあった。そのため、都市ごと、大学ごとなどにミラーサイトを設置し、できるだけ近い場所にあるミラーサイトからダウンロードすることで、速度低下を軽減する取り組みが行われていた。ネットワークが強化されるとともに、CDNなどコンテンツ配信のための仕組みが登場し、サーバーとの物理的な距離は考慮する必要がなくなっていく


2000年、IIJ視点で見たブロードバンドの舞台裏

――そういう時代を経て、ついにブロードバンドがやってきます。

堂前氏:最初が、2000年の「フレッツ・ISDN」ですかね。それまでのISDNの仕組みをちょっといじって、常時接続っぽいようにした感じでしたね。

――「っぽい」ものだったんですね。

佐々木氏:当時のフレッツ・ISDNは、常時接続にもできるダイヤルアップでした。定額で、1回かけると基本的にずっとつながっているという。ISDNルーターを使っていれば、切れたら自動的にダイヤルアップしなおしてくれるので、事実上つなぎっぱなしでした。

佐々木氏:ちょうど同じ頃に、東京めたりっく通信が登場して。NTTとの間で、将来の通信はADSLかISDNかで「戦って」いた頃ですよね。

長氏:でも、半年後には「フレッツ・ADSL」が出てくるんですよね。

佐々木氏:だから時代の流れは早い。

長氏:さらに半年後くらいには、光回線の「Bフレッツ」が出てきて。

堂前氏:早っ(笑)。

注:NTT東西では、ISDNによる常時接続サービス「フレッツ・ISDN」を2000年7月に提供開始(2000年7月18日の記事にてサービス名称変更を報じているが、サービス提供開始も、NTT東西とも2000年7月)。ADSLによる常時接続サービス「フレッツ・ADSL」は2000年12月に提供開始している(NTT東西、「フレッツ・ADSL」12月末より提供開始)。「Bフレッツ」は2001年8月の開始(NTT東西、最大10Mbpsの光アクセスを月額6,100円で提供 8月より「Bフレッツ」として本格提供へ

佐々木氏:ただし、当時のBフレッツは本当にサービスエリアが狭くて、契約できるのは都会の電話局の近くの人などに限られていました。多くの人が契約できる回線は、ADSLが開通しているエリアならADSL、なければISDN、という世界だったと思います。

堂前氏:最初のBフレッツって、仕組みとしてはかなり強引で、光ファイバーの両端に1個ずつメディアコンバーターが付いている贅沢な作りでしたね。後から出てくるサービスはもっとコストを下げる作りになったんですが。我々から見て、当時のNTTは「とにかく光ファイバーでつなぐんだ」という執念を持っているような印象を持っていました。

インターネットマガジン バックナンバーより、「INTERNENT Magazine」2001年10月号掲載の商用ネットワークサービスプロバイダー接続マップ

長氏:いろいろな見方で全然違うストーリーがあると思いますが、私から見た当時の話をします。もともとNTTは、ADSLをあまりやりたくなくて、ずっと光を推していた。それに対して、東京めたりっく通信などの新しい会社が、少しずつADSLをやろうとしていた。

 そこに日米貿易摩擦があって、NTTも槍玉に上がったし、日本政府でも競争政策を進めていた。そこでNTTは、局舎を使わせるところは譲って、長距離電話は守ろうとした節があります。その結果、ADSLの事業者がつながるようになった。

注:いわゆる日米貿易摩擦は、1980年代以降特に話題になった一連の貿易摩擦問題。ここで話題になっているものは、1990年代後半以降において、NTTやKDD(現KDDI)の外資規制や、米国の通信事業者が日本市場でサービスを提供するにあたってNTTの接続料金が高いことが参入障壁となっていたことなどが問題視されたもの

 そうしたらYahoo! BBが2001年に参入して、急に流れが変わっちゃった。その前にはUSENが独自に回線を引いて光回線のサービスを始めてもいます。そうした動きにNTTが引っ張られたんじゃないかと思います。

堂前氏:当時は、NTTの局舎に機材を設置できることになったのをきっかけに、いろいろな会社がADSLに参入して、競争が激しくなりましたね。そこで一気にインターネット常時接続が増えた感じです。


P2Pファイル共有が問題化も、議論のもとになるデータがない!

――ちょうど2000年前後は、P2Pによるファイル共有が流行りだした頃でもあります。

長氏:「WinMX」が2001年、「Winny」が2002年ですね。

堂前氏:P2Pが流行した時期のデータやトレンドの変化ってありますか?

長氏:もちろん、トラフィックにすごく大きなインパクトがありました。テレホーダイの時は夜だけがピークでしたが、Winnyでは24時間回りっぱなしになりました。しかも、それまではほぼダウンロードのための下り回線だけが使われていましたが、Winnyだと、だいたい上りと下りのトラフィックも同じぐらいになる現象が起こりました。

 私は2004年ぐらいから(トラフィックの)データを持っています。一般ユーザーのトラフィックはアップロードと比べてダウンロードが1桁多いぐらいですが、当時のヘビーユーザーはダウンロードとアップロードが同じぐらいで、総量が一般ユーザーと比べて2桁ぐらい多く、分布が2つに分かれていました。人数は必ずしも多くありませんでしたが、総量としてはかなりのインパクトのある状況でした。

 これが当時いろいろな問題になって、政府の「次世代IPインフラ研究会」という組織ができて、うちの鈴木(幸一氏。当時社長)も入っていました。

 そして、そこで問題になったのが「データがない」ことでした。

堂前氏:それは、データがなかったのか、それとも取れなかったのか、どちらでしょう?

長氏:当時は一部のISPが、どこで取ったかも縦軸が何かも言わないで信憑性のないデータを出して、「ここで急に3倍になった」のような議論をしていたので。委員会では、これはちょっとデータを取らなければいけないということになって。それで始まったのが、今も行われている総務省の「我が国のインターネットにおけるトラヒックの集計・試算」につながっています。データ収集を2004年の秋から始め、私が最初から集計を担当しています。

堂前氏:トラフィックが日本全体で問題になってきて、その対策のために、データを取り始めたと。

長氏:対策というより、その前に現状を把握しなければ話にならないので始めたというところですね。

堂前氏:1つ覚えているのが、ブロードバンドが始まった直後は各ISPとも24時間使い放題というセールストークだったんですが、あるときから「アップロード方向は1週間で何ギガ」みたいなことを一斉に言い始めたことがありました。

佐々木氏:当時、「Winnyは禁止します」と宣言して、大問題になったISPもありました、IIJは、上りトラフィックが1日15GBまでみたいな規制は入れましたが、それ以外の対策は控えめで、おそらく淡々と設備増強していったと思います。

長氏:当時IIJはトラフィックを把握するために早くからNetFlowでデータを取っていて、私が国内のトラフィックを取れたのも、その仕組みと経験があってのことでした。

――ちなみに、あのころは日本全体で何が焦点になっていたんでしょうか。

長氏:とにかくP2Pでトラフィックが急増して、この伸び方ではインターネットのインフラがもたないと主張する人が一部にいて。確かに、P2Pで大トラフィックを発生させているヘビーユーザーはいました。

 ただし、普通の人たちも、この時期急速に写真や動画などいろいろなのが使えるようになってきて、そこでもトラフィック量が底上げされてきていました。また、P2Pのトラフィックやその中身は問題視されましたが、分散管理の技術自体は支持を受けるなど、いろいろな意見が出ていました。

堂前氏:日本のその時期って、総務省を含めて、みんながインターネットの将来について気にし始めた時期でもあるんでしょうかね。

長氏:そうですね。将来のインターネットについて、真面目に議論されるようになったのがこの時期だったかもしれません。

――データを取った結果、どういうことがわかったのでしょうか。

長氏:確かに当時、トラフィックがそれまでと比べてすごい勢いで伸びていたのは事実でした。

 ただ、その先を見ていくと、実はだんだんP2Pトラフィックは頭打ちになっていきました。それにはいくつか理由があります。P2Pが批判されて人気がなくなっていったことが1つ。また、動画を違法にダウンロードしなくても、普通に動画を見られるようになったことも大きいと思います。

 さらに、全体のトラフィックがだんだん底上げされてきて、その中でP2Pはあまり伸びずに留まって、いつの間にか底上げされた分に吸収されていったということもあります。これらは、2010年過ぎくらいまでの間に起こりました。

IIJの技術レポート「Internet Infrastructure Review(IIR)Vol.4」に掲載されている、2005年と2009年の、ユーザーのアップロード/ダウンロードのトラフィック量をプロットしたもの。2005年(左)は、アっプロードよりもダウンロード量が多い、普通のユーザーにあたる「クライアント型」ユーザー群(図の斜めのラインの下)と、アップ/ダウンの量がほぼ同じでどちらも総量が多い、P2Pのヘビーユーザーと見られる「ピア型」ユーザー群(図の右上、斜めのライン上)の2つのクラスターが確認できる。2009年には、クライアント型ユーザー群の中心は右上に移動し、ピア型ユーザー群は幅が広がって密度が下がっている


今も生きる2000年代中盤の取り組み

長氏:当時、次世代IPインフラ研究会が出した報告書をあらためて見ると、トラフィックの一極集中、ブロードバンド品質低下、大規模サイバー攻撃に対する脆弱性、通信設備に対する過剰負荷とか、結構今でも言われてる話が並んでますね。

 当時の背景としては、電話網からIP網への円滑な移行を目指すという大きい枠組みがあって。その下にインフラの議論をするグループが作られて、その中の報告書という位置づけになります。

次世代IPインフラ研究会第一次報告書(案) バックボーンの現状と課題(総務省)P.15より。国内の主要な3つのIXにおけるトラフィックの増加傾向は、同時期のトラフィック情報を公開している欧州最大のIXを上回るとしている

堂前氏:その辺の話が始まったのがそのタイミングなんですね。

――おそらく、このときのいろいろなやり取りが土壌になって、その後さらにトラフィックが増えた状況にも対応できるようになっているのでしょうね。

長氏:P2Pの頃の取り組みは、最近のコロナ禍においても役に立ったと思っています。コロナ禍の最初の頃に、トラフィックが急増して1.6倍ぐらいになりました。それで騒ぐ声もあったんですが、長期的には当初言われたような大爆発にはなってない。そうした、ちゃんと長い目で見て冷静な議論をしましょうというベースに、P2Pの頃の経験がなっていると思っています。

後編に続く)